「グラン・トリノ」の感想
映画「グラン・トリノ」を観ました。
原題:Gran Torino
公開:2008年(アメリカ)
上映時間:117分
監督・主演:クリント・イーストウッド
まあまあおもしろかったです。
フォードの自動車組立工を50年勤め上げたポーランド系アメリカ人のコワルスキーは、妻に先立たれ、二人の息子や孫たちとは心を通わせられずにいた。
頑固で偏屈で人種差別的である。朝鮮戦争での罪の記憶があるものの、亡き妻の依頼により訪ねてきた神父も寄せ付けない。
ある日、モル族のギャングたちにそそのかされた隣家のタオが愛車のグラン・トリノを盗もうとするのを見つける。
それをきっかけに、姉スーとタオたちとの交流を深めていく話。
「グラン・トリノ」という車にアメリカらしさを感じるようなタイプの人であれば、またちがった印象になる映画かもしれない。
アメリカ人って芝生を大事にする古典的イメージがある。
主人公がその印象通りの暮らしをしていた。
やっぱり大事にするんだー、と思いながら見た。
わるい映画ではないと思うし、物語に対して高評価する人も多いと思う。
だが、名作になるには、決定的な何かが足りない印象があった。
物語を感動的な名作にするには、主要人物同士の究極的理解が必要だと思う。
本作では、主人公はタオに対してしていたのは、グラン・トリノを盗めない「トロ助」みたいな罵倒的コミュニケーションとか、男とはこういう話し方をするものだという押し付けが多かった。
それらが、主人公の性格をよく表しているのもわかるし、男としての渋さを表現しているのもわかる。
だけどそういう交流を通して関係を深めたとしている点が、私にとっては究極的理解からは遠く感じたのかもしれない。
的外れかもしれないが、具体例を考えてみる。
例えば、最後にタオがコワルスキーによって地下室に閉じ込められるシーン。
「眼前の金網扉がしまっていて、ようやく状況に気づくタオ」と「地下室につれていかれる時点で、彼なら自分をここに閉じ込めるかもって思うタオ」とだったら、後者の方が主人公のことをより理解しているのではないか。とかね。
でもそうなると、話の展開がかわってくるから、大変ですよね。
良い点。
カトリック教の贖罪や懺悔という要素が、映画のテーマとしてうまく組み込まれている。
それが、映画にある程度の深みを生み出している。
オールドマン・ミーツ・ボーイの典型的な映画であった。
気になった点。
警察が全然仕事をしていない点。
大規模な銃撃が行われて、容疑者も簡単に割り出せて、住所も突き止めている状況だった。
にも関わらず、何も起きないからと言い神父を連れて帰るのが、あまりに不自然すぎると感じました。
どうしてそうなったのだろう。
物語の結末のために、仕組まれた警察の行動に思えた。
主人公がギャングたちをボコしたから、状況が悪化していた点。
このため、物語の結末に対して素直に感動できなかった。
ギャングの報復として、隣家が襲われた点。
ギャングの短絡的な思考だったら、直接コワルスキー家を襲う方が自然だろう。
なぜ隣家が襲われたのだろう。
物語の結末の都合のために、隣家と姉スーが襲われたのだろうと思ってしまう。